前書き
平成3年3月31日から、東京都心の地下のみならず千葉の成田や印西から神奈川の三浦半島まで縦横無尽に沢山の人間を運び続けた都営5300形。今年で32年目になるんですね。
そんな5300形のうち、5500形の無線装置更新に伴って予備車が必要となる関係か、この1年半近く5320編成が孤軍奮闘してきていたのは皆さまもご存じかと思います。
そんな都営5300形最後の1本たる5320編成も、ついにその役目を終えるときが来てしまったなんて噂がたっております。まあ、これまでみたいにまた良い意味で裏切られたらそれはそれでいいんですけどね。
結局この記事で最後に取り上げた10月以来、彼に会うこともありませんでした。正直無念ですし、きっとまた会えると思ってあの日に車内を後にしたからというよりは小さいころから高校を出て地元を離れるまでずっと一緒だった電車だったので、実感が沸きませんね。
本題
5320編成にこれといった特別な思い入れがあるというよりは、5300形は物心つくころからお世話になってきましたので、今日は5300形との思い出をかいつまんで振り返ってみたいと思います。
都営車の通勤特急
9年ぐらい前の1933Tでしたでしょうか。僕が中3の頃の話ですが、T台の通特が設定されていました。当時通っていた塾をこっそり抜け出して拙い写真を撮っていたのが懐かしいですね(笑)。ほぼ同時刻に上りのT快速もあったので並びを狙ったらまあ一応並んだってことでよいのでしょうか。
その他中坊のとき
同じく塾の自習室を抜け出して駅ビルのコンビニに向かう時にも撮っていましたっけねえ。
当時は志望校を母校にしたくて必死に勉強しつつ、線路際を通った際に5300形や当時まだ現役だったAE100形や3300形等を見ることが息抜きでしたねえ。懐かしいです。
高校の帰り(など)
まあ、高校生になってからも本当に世話になりました。もっとも県立高校入試の前期はインフルでダウン、死ぬ気で挑み志望校を変えずアタックした後期はボーダー落ちでしたが...それでも第二志望の高校でよかったですし、だからこそ通学等で5300形の世話になることもできたのでしょう。
基本的に部活があるとこの1531Tレにはまず間に合わなかったのですが、7限目を終えてかつテスト期間だと帰宅電がこれでした。イヤホンを外して「交通局の白い悪魔」と呼ばれる所以となった爆音を3駅ながら楽しんでいたのが懐かしいものです。
少年よ、テスト期間に何をしている()
ま、でも今となってはやはり良い思い出です。いやテスト期間ぐらいは勉強もしてほしかったですが。
そういえば、後継車両の5500形の話が出たのは僕が高1の夏ぐらいだったかなあ。結局ぼくが地元を離れてからのデビューではありましたが。
やはりテスト期間に遊んでいる感が否めないのですが、でも撮っておいてよかった。もっとも、しっかり勉強して志望していた大学に進学していたら実家を出ることもなかったでしょうし、その分置換えの過渡期も記録はできたと思いますけどね(笑)。
無論プライベートでお出かけするときも本当にお世話になりました。まあこの時は乗ってないのでアレなんですが(羽田に向かっていたのに何をしているのだ)。
まあ、こんな感じで本当に世話になったなと思うんですね。そういえば背景のOKもいつの間にかなくなってしまいました。
地元を離れてからも...
私は山梨県内の大学に進学したので、高卒と同時に千葉を離れました。しかしながら東京に遊びに行ったり千葉に帰ったりしたとき、なんかやはり彼らのお世話になることが多かったなって思います。
ま、この快特と特急に関してはただ撮っただけですけどね。
なお私が地元を離れて数か月、5500形がデビューし、たまたま私が帰省していた夏休み期間には京成線への直通も始まりました。またそれと前後して5301編成が廃車となっています。
だからって訳ではありませんが、
ある時は浅草線経由で31Tを狙ってそのまま帰ったこともありましたね。都営車ということでWi-Fiがあったのも地味に助かりましたが、やはり慣れ親しんだ電車で地元に帰るってよかったなとも思います。まあ、京成の電車だって十分に慣れ親しんでいるのですが。
これが大学の期末考査の前日だってのは置いといて、地元の親友諸氏とカラオケからの鉄をした際にもこの馬込特急を狙ったことがありました。予想外の試運転はバリ晴れだったのに1830Tはこのザマ、いつかやり直したいと思いつつ結局叶いませんでしたね。まあでも親友諸氏との思い出になっているのは事実なのでヨシ。
あと酔っぱらって電車を撮るのはやめた方がいいってのも教わりました(成人後の話です無論)。
たまには京急線内での写真も(さっきも投稿したけどね)。高校の同級生でもある親友氏と羽田で遊んだ時に撮っていました。翼を生やした5300の広告は有名ですが、快特として青々とした天空橋を通過するシーンもそれっぽいからヨシってことで良いでしょうか(良いかは知らん)。
帰省していた地元から帰る時の電車でもお世話になったことがありました。何なら令和初の被写体でもありましたね。
無論地元でも撮影していました。
君ら、待っていたら来るような電車だったのにね。
いつからだろう、気付いたら狙わないと会えない存在になっていました。
コロナ禍だった3年前、3150形デビューとフリー乗車券に沸いて身内のヲタク諸氏とわいわい押上線に出向いていたときもこんなに普通に来ていたのにね。
あと(この写真はコロナ禍前で時系列が前後してすまんです)、関西遠征に際して実家から18券で西へ!って時にたまたま5300形が来たので、余計なお金こそかかるものの新橋まで乗ったこともありましたね笑。
あの時も乗っておいてよかったなあ。
それからもあれよあれよと数を減らしていった5300形。でも4直の大半の線区で会えましたから、当たり前だって思っていた節があった気もします。まあ乗れたら嬉しいですが京急線内でのドア上LEDはアレでしたので、あれだけは...って感じでしたが。
これは令和2年の10月撮影。まだそこそこ残っていましたね。あの頃が懐かしいです。
残り数本って状態だった令和3年春には、浅草線60周年や4直の30周年を記念したHMもありましたね。
ま、この年は割と忙しくてそこまで地元にも帰っておらず、写真はあまりないんですけどね。
そして、5320編成は最後の一本となりました。
5320編成との最後の1年
5319編成が令和3年秋に引退しましたが、5500形への改造工事の予備車として5320編成が(一応、記事を書いている2/23までは)孤軍奮闘しています。
ちょうど1年ほどまえ、改正での運用の増減によっては…という可能性も鑑みて、朝にちょっとだけ浅草線にお邪魔したことがありました。
フリー乗車券あざす。てな感じで馬込シャトル耐久をしておりました(笑)。
平日の朝ということもあってか僕以外に同業さんはいませんでしたが、それが日常って感じで良かった気もします。知らんけど。
あの時、もう最後かもなって寂しい気持ちで撮影と乗車をしていたのになあ。
でも、あれから1年ほど頑張ってくれたのは本当にうれしいものです。
おかげさまで、年度が変わってからも記録を増やし続けることができました。
5319編成一周忌を過ぎてからも元気に頑張る5320編成の写真です。秋休みに感謝しつつ、実は5320編成って3本ぐらいいるのではないかというレベルで地元のお仲間氏からは目撃が上がっていたのも懐かしく思い出しました。
馬込午後出庫ガチャに賭けたところ、少し前まで一緒に鉄していた友人氏からも目撃を受けて乗車したのも昨日のことのようです。まあ去年の秋なので割と最近ですけどね。
翌日には実家を離れるにあたり、高校生の頃から通ってきた撮影地で撮影しつつそのまま乗車。途中、沿線では高校生の頃から仲良くしてくれている鉄な親友氏とニアミスしつつ途中駅で下車して別の親友氏とお茶をしてから名古屋に戻ったっけなあと。
そして、現時点ではこれが最後の写真となりました。
ありがとう。
京成本線の沿線に育った私が「東京都」の公営交通の電車にこんなことを書くのもアレかと思いますが。
幼いころから電車オタクな僕は、どうしても地元の電車ってずっと身近な存在でした。そこにいるのが当たり前、いつでも会える電車。特に5300形に関しては北総線への直通運用も昔からありますので、幼稚園に入る前なんかは北総線で一番見ていたこともあって北総の電車と勘違いしていたことさえありました(笑)。
生まれ故郷に帰るにあたって羽田空港まで乗ったり、それ以外でも幼少期から沢山乗ったり見たり撮ったり。そういえばSA開業前はエアポート快速でもよく見かけていましたね。
そして日常的に電車を使うようになった高校生以降も、地元を離れてからも、本当にお世話になりました。
一時期は京成本線に直通する運用が少なくなっていたこともありましたが、君が京成線で見られない日なんてなかったね。
僕は今年で20代前半が終わるようなもんですが、思えば僕って本当に5300形にはお世話になりました。誰かのせいで軽く鉄分を含有している私の母も、都営の白い電車は可愛くて好きだしいっぱい乗ったなあと申しておりました。
大爆音で4直を縦横無尽に走り回ってきた都営5300形。主に京成線内でばかりお世話になってきた私が言うのもアレですけど、僕が生まれるより前からずっと走ってきた5300形。僕の人生で5300形のお世話にならない年なんて多分ありませんでしたね。
そしてそのたびに、色とりどりの素敵な思い出をもらいました。いろいろと癖が強く、特徴的で、いろいろな意味で印象に残る車でした。何よりも、幼少期から親しんできた、いわば幼馴染のようなものですから、本当に僕の人生に欠かせない存在でした。Maxみたいに僕を鉄の沼に突き落としてくれやがった車両の一つとしても、5300形の存在はあります。
現時点で今後のことはわかりかねますが、恐らくはもう会うこともないのかなと寂しい気持ちです。
当たり前って当たり前じゃないんだね。
私は、沢山の素敵な思い出をもらいました。赤と青の地元路線に華を添えてくれていた白黒赤の電車、君は僕の心の中では永遠です。
長い間お世話になりました、本当にありがとう。これまでもこれからも、5300形が大好きです。そしてこの20年と少し、ほんと楽しかったなって思っています。
何でしょう、地元を離れて5年が経とうとしている私としては、また帰省するときに5300形に会いたい気持ちがあります。いつまでも快速で時折会える存在でいてほしいなって思います。もう本当に会えないかもしれないと思うと、正直寂しいという気持ちよりは実感が沸きませんね。それぐらい当たり前の存在でした。
最後にまた撮りたい、乗りたい、見たい、そんな気持ちが叶うかは現時点ではわかりません。前みたいに良い意味で裏切られるかもしれないし、そうもいかないかもしれません。だからこそ、なんかもどかしいし寂しいですね。
鉄オタの推し車両への気持ちってある種の一方通行みたいなものかもしれませんが、
そう考えると毎日鬼リピしているこの曲を聴きながら書いていたこともあってか、なんか色々と思い出しましたね。
春へ向かっていく風が恋を曖昧に誤魔化す、か。いや恋ではないんですけど(それはそう)。だけどだけど、心にずっと君がいるのは事実です。(ポエマータイム発動)
勝手に好きなだけのヲタクですが、このままでもいいのかもしれませんが、5300形のヲタクをしたことをこれから先記事等にすることもないであろうとはいえ、忘れずにいたいものです。別に忘れるようなレベルの思い入れではありませんけどね。
また会う日があるかはわかりませんが、あと少しだけ思い出を増やすことができるのであればその時を楽しみにしたいですね。
5300で記事を書くのは最後の可能性もあるので書いておきましょう。
君のヲタクでいられて本当に幸せでした。住む場所、環境等が変わっても、いつでも地元に来てくれる君が大好きで、たくさんの素敵な思い出をもらいました。控えめにって楽しかった。そして君のオタクでいられて本当によかった。
さよならの実感はないけれど。どうせまた会えるんだろうけど。でも、今まで本当にありがとう。嬉しい時もそうでない時も、本当に辛い時も、お世話になりました。
地元を離れてからどんどん数を減らしていっていたけれど、会えた時は本当に嬉しかった。何も無駄なことを考えず、幼少期のように純粋にヲタクできていたとも思います。今日まで頑張ってくれていたことにまずは感謝です。
本当にお世話になりました。本当にありがとう。またね。